“大きな谷”の文化集積地、小谷村 アマカザリの美しい女神に会いに行く

低山トラベラー/山旅文筆家

大内征(おおうち・せい)

女神宿りし姫川と雨飾山

姫川の青くせせらぐ水面を目の前にして、少しばかり心が躍っている。ここは女神の土地だ。記紀神話のことではあるものの、高志国(こしのくに=越国)と呼ばれる古代の大国を治めた女王の存在が伝わり、祭祀には土地で産出した翡翠(ヒスイ)を用いたとされる、ロマン溢れる地域である。これから向かう長野県の小谷村(おたりむら)は諏訪方面からも入れるのだけれど、わざわざ新潟側から回り込むようにしてここを通ったのには、実はちょっとした理由があった。

夏の日本海は抜群に青く、とても美しい。太平洋の荒波に育ったぼくにとっては、まるで南国のリゾートかのように映る。大陸に落ちてゆく午後の太陽が凪いだ水面をキラキラに照らしていた。年に一度はこの眩い海原を眺めたいと発作が起こるものだから、夏になると太平洋側から分水嶺を越えて、上信越や北陸の山々に登って日本海を眺めることを心に決めている。この日も海は鳥肌がたつほど美しく、上越市からは下道におりて海沿いの道をドライブすることにした。

しばらく海岸線を辿って糸魚川市に入ると、そこからは谷間を貫く姫川に沿って小谷村に入る。その途中、遠回りをした理由である「翡翠橋」に立ち寄った。みどりばしと読むこの長い橋のど真ん中から南を向くと、姫川の先に聳える山々の姿が素晴らしい。ちょこんとピークが盛り上がっている、あれが雨飾(あまかざり)という山の頂で、そこに登った者だけが謁見できるという女神が待っている。明日登るその山の姿を、こうして外側から目に焼き付けておきたかったのだ。

里から仰ぎ見ると、かなり大きく迫力ある急峻な山容である。アマカザリなんて優しい響きは似つかわしくないなあ、などと独り言ちながらも、翡翠の女神・奴奈川姫(ぬなかわひめ)に思いを馳せる山旅の始まりにワクワクしていた。

うつつの名湯「小谷温泉」を拠点に

小谷村は山深い。巨大な菱形のような形をした村域のほとんどが山間部で、その中央を大きな谷が姫川とともに大縦断している。この「おたり」という地名は1190年ごろの書物に「於多里」という文字で初出とされ、使われる漢字がいくつかあったものの、鎌倉時代の半ばころには「小谷」という表記があったそうだ。

越後や甲斐といった近隣の大国からすれば、ここはずいぶんと山深く不便な土地だったはずだけれど、戦国期から江戸期にかけて領土の奪い合いや信越国境論争なんかも起こっている。海と山をつなぐ「塩の道」があり、自然資源や文化産物が多く集積される魅惑的な土地柄だったことが、その事実だけでもよくわかる。

たとえば、貴重な鉱物の翡翠だったり、人・コト・モノが行き交う道の存在だったり。温泉もそのひとつだろう。いつの時代も人を惹きつける理由や名産があり、それを礎に文化を育んできた、それが小谷の魅力の根っこの部分なのだ。

そんな魅惑の資源たる温泉を目当てに、雨飾山麓の小谷温泉に宿をとった。心底楽しみにしていたこの旅館はとても歴史が古く、土地の宮大工たちよって築かれたという古めかしい木造の建物が目を引く。敷地内には江戸、明治、大正、平成それぞれの時代に作られた建物が立ち並び、湯治を目的とした人たちが利用する江戸時代の館の部屋にはドアとか鍵というものがない。障子ひとつで廊下と隔てているだけだから、音も気配も余すことなく筒抜けてしまう。天上の低さは雪国ならではだろう。そういうことがかえって、昔ながらの湯旅の風情を存分に味わう理由となり、これがぼくの気に入った。

小谷温泉には元湯、新湯、熱湯という三つの源泉があって、ここには元湯がひかれている。内湯は大正時代のもので歴史を感じる雰囲気がよく、平成時代にできた館には開放感抜群の外湯があって目にも嬉しい。湯がよいのはもちろんのことで、飲泉もできるのだから温泉好きにはたまらない。宿泊客はそのどちらに何度入ってもよい。特に湯治に籠るなら最高の環境だといえる。

さっそく元湯をいただいて汗を流し、冷やしておいた缶ビールを共同で利用する自炊場の冷蔵庫から取り出して部屋に戻る。廊下に連なる他の部屋の隅々まで届きそうな、プシュっと弾けるいい音がした。湯上りの身体に染み渡る、この瞬間が旅の夜のお楽しみでもある。

ところで、この旅館には数多の文人が足を運んでいる。併設された資料館を見学させてもらうことができるので、絶対に見ておいた方がいい。思わぬ著名人の文化的な営み、歴史を示す古文書などの一端が丁寧に展示されていて興味深い。中でも山岳人・深田久弥の写真とエピソードは、百名山ハンターなら感涙ものだろう。古い資料なんかが好きな人ならば、いつまでだっていられそうな宝箱のような部屋なのだ。

二度も登り損ねた雨飾山の登頂に成功したのは、この小谷温泉からだったということが、深田の著書『日本百名山』に記されている。それでこの温泉の名をぼくは知った。実を言うとぼく自身、雨飾山にはたびたび天候不良で登り損ねている。

「山は心をあとに残す方がいい、と言った人がある。一ぺんで登ってしまうよりも、幾度か登り損ねたあげく、ようやくその山頂を得た方がはるかに味わい深い。私にとって雨飾山がそれであった。」という本書の一節に自分を重ね合わせながら、明日の三度目の正直に期待する。宿の方に往時から伝わる話を伺うとなお一層に面白く、とはいえ仕事の邪魔をしてはいかんと、ほどほどのところでセーブした。

厳しい登りの先に待つのは、横顔の美しい女神さま

夜明け前、廊下の足音に目を覚ます。他の宿泊者もこんな時間に起きて出かける準備をしているということは、きっと雨飾山を歩くのだろう。まだ薄暗い小谷温泉を出て雨飾高原キャンプ場前の駐車場についた時には、まだ半分以上のスペースが空いていた。

白みつつある空には、雲がほとんど見当たらない。予報でも快晴と出ていたから、今日は最高の山歩きができそうだ。トイレを済ませて登山届を記入している間に、この絶好の天候を逃さないハイカーたちの車が続々とやってくる。本当に山深いところだし、周辺には北アルプスの名峰がひしめき合っている激戦区。それでもこれだけのハイカーがやって来るのだから、人気の高さがうかがえるというものだ。

歩き出しの木道はしばらく平坦な湿地帯を縫い、ところどころで沢の音に耳を傾ける。水辺の植物や昆虫が賑やかで、点在する大木はここをジャングルみたいな密林のように演出していた。まだ登山は始まったばかりだというのに、カメラを構えた愛好家があちこちで足を止めてレンズを向けている。これじゃあさっぱり前に進まないねぇ!なんて言いながら、表情を崩すライカの愛用者。夜が明けて間もないから、まだまだたっぷり時間はある。確かに、そう急がずともよさそうだ。

ところが、ブナの巨木が目立ち始めると、徐々に急登となる。単調な登りを黙々と続ける間、樹々の隙間からこぼれ落ちる陽光が身体を熱して暑い。時おり風が吹き抜けるものの、やはり樹林帯は夏らしくムシムシしている。

携帯トイレブースを過ぎてから、急に視界が拓けた。目の前に大きな谷があり、見上げると鋭く切り立つ岩峰「布団菱」の絶景に思わず声をあげる。この谷筋に沿って流れるのが荒菅沢といって、かつて「荒菅山」とも呼ばれた雨飾の歴史をその名称に残している。沢を渡渉する際、すっかり汗ばんだ顔をザブザブと洗ってすっきり爽快。山からしみ出して間もないピュアな水は、気分をリフレッシュする最高の山の恵みである。同じことを考えるハイカーたちはみなここで帽子をとり、中には頭から水を被る者もあった。

青空と布団菱の絶壁に別れを告げて、いよいよ核心部に迫る急登を越えるところだ。陽にさらされた岩尾根に取り付いて着実に高度を上げていくと、谷を挟んだ対面に頚城山塊(くびきさんかい)の連なりがすぐ背後に大きい。この上に広がる素晴らしい展望に期待を膨らませながら、さらにぐんぐん岩尾根をよじ登ると、笹平(ささだいら)という草原のようなところに乗っ越した。目の前には最後のひと登りがあるだけで、その上に数人の登頂者たちがいるのがよく見える。

雨飾山はふたつのピークを持つ双耳峰で、その形容から猫の耳とも呼ばれる。左右のはすぐに行き来できるほど近く隣り合っていて、その鞍部の距離は30mほどしかない。山の大きさを考慮すればまさしく猫の額というほどの距離感だ。頂の片方には石仏石碑が立ち並んでいて、その西側に聳え立つ後立山連峰の壮大さに言葉を失う。白馬三山、唐松岳、五竜岳、鹿島槍ヶ岳……そのずっと奥には槍ヶ岳も見えているのだから、最上級の山岳展望である。

頂のもう片方には石祠と標高1963mを示す山頂碑が立つ。ここから東の展望もまた見事で、やや尖って見えるのは焼山、それと火打山の頂だろうか。対照的になだらかな山頂は金山と天狗原山だろう。そのまま時計回りに目線を動かすと、ひと際高いピークの高妻山、そしてギザギザの山稜が目印の戸隠山が、まさに雨飾山を中心にぐるりと取り囲んでいるように配置されている。これは見事としか言いようがない。

ここまで夏の太陽に汗が噴き出す急な登り道だったけれど、山頂付近は風が強く肌寒い。薄手の長袖を取り出してさっと羽織る。旅館に頼んでおいた握り飯を頬張りながら、この360度の大展望を楽しんだ。絶景は山ばかりではない。真っ青な日本海に注ぐ姫川だってよく見えている。田を縫うように流れるその川辺から、昨日はこの山頂を眺めたのだ。そして雨霧に撤退した以前の山行のことも思い合わせると、これだけの好天と絶佳に感慨が大きい。

時計の針は、朝の8時を指していた。静かに目を閉じて、姫川に象徴される翡翠の女神・奴奈川姫を想う。祭祀を司る巫女のような存在だったか、五穀豊穣をもたらす農耕神だったか。そのあたりに明るいわけではないけれど、谷に守られ雪に閉ざされ、文化がガラパゴス的に深化してきた神秘の土地だけに、その存在と役割もまた神秘的なものだったのだろうと想像するのだ。

そっと目を開けて眼下の笹平を眺め下すと、そこに微笑む女神の横顔があった。これこそ雨飾山に宿る女神だと評判の、横顔の美しい女性である。笹平につけられた登山道が、偶然そのようになったのだろうか。ロマンチックな気分を隠しきれなくなり、しばらく女神に向かって願い事などを奏上してみるのだった。

絶景の鎌池、神秘の鉈池

山頂を離れ、登ってきた道をそのまま戻る。途中、笹平では「このあたりが口で、あっちら辺が目で……」と言いながら、すれ違うハイカーたちと行う現場検証が楽しい。もちろん荒菅沢では冷たい水に顔を洗ったし、冷やして絞った手ぬぐいを首に巻いたりもした。

名残惜しい道中の雰囲気を楽しみながら駐車場まで戻ると、すぐさまハンドルを握り、今度は近くの鎌池・鉈池へとやってきた。まだ午前中の若い陽射しが緑鮮やかな畔のブナたちを照らしている。風に揺れる水面が時おり邪魔するだけで、鏡のごとき鎌池には照らされた樹林が見事に反射していた。鎌の形に似ていることからそう名付けられ、隣に鉈池という小さな水辺を秘すのも面白い。鎌も鉈も、いずれも神秘的な雰囲気がある水辺で、一周40分ほどの散策路がほどよいクールダウンとなる。いささか疲れた身体を休めるとともに、心地よく流れる時間に身を委ねる。なんと気持ちのよいことだろう。

それにしても、まだお昼を過ぎたばかりだ。予定よりも時間が早いけれど、宿に戻って昼間っから温泉&ビールを楽しむことにしよう。早朝から最高の山歩きを楽しむことができたし、この日はもう店じまいということで、小谷温泉で最後の夜を楽しんだ。

塩の道の一端で、諏訪信仰に触れる

昨日の好天をそのまま引き継いだかのような朝を迎えた。素晴らしく穏やかで、夏とはいえこの山深さはすでに秋の空気になっていて涼しい。朝風呂で目を覚まし、宿の方から聞いた近隣の評判を辿って、中土地区を歩いてみる。

小谷村を大縦断しているのは姫川だけではない。かつて日本海の塩や海産物を信濃国の内陸深くにまで届けた「塩の道」も、この村域を貫いている。一方で、太平洋側から運ばれてくる塩の道もあって、それぞれがぶつかり終着(尻)となる場所がある。その地を塩尻といった。かつて建御名方神(タケミナカタノカミ)が姫川を遡って諏訪に入り神となった言い伝えがあるけれど、ここ小谷という土地には古来より神懸った何かが宿っているらしい。それがよいものとなって産出するのだろう。

その諏訪神が祀られる大宮諏訪神社を訪ねた。荒菅沢から流れてくる水はやがて中谷川となり、塩の道「市場」に架かる中谷橋をくぐる。素朴な里を護る静かな山中にその神域があった。風が通り、陽射しがさしこむ気持ちのよい境内。ここは七年に一度、諏訪大社の御柱祭の前年に諏訪から宮司さんがやってきて「薙鎌打ち神事」のための奉告奉献祭を執り行う神社なのだそうだ。そういえば、その宮司さんが神事の前夜に泊まる宿こそ小谷温泉なのだと、旅館の方がおっしゃっていたことを、ふと思い出す。

旅をして人に交わり土地に馴染むと、自分の中で何かが繋がっていくような感覚になることがある。翡翠の女神を姫川に思いながら、雨飾山の美しい女神と謁見をした。諏訪から小谷にまで届く神威を、塩尻と小谷を結ぶ塩の道と神社に重ねて歩いた。拠点にした小谷温泉、ひいては小谷村で、いろいろなコトモノが繋がった気がする。まあ、こういう理由付けは、自己満足に過ぎないのだけれど。ただ、振り返ってみると、このタイミングで小谷村に導かれたことが偶然のようで必然のようで……。ぼくにとって、点と点が繋がる線のような旅になったことは、間違いないと思うのだ。

文・写真 :低山トラベラー/山旅文筆家 大内征

<コース>

1日目:小谷温泉

2日目:小谷温泉→(車移動)→雨飾高原キャンプ場(登山口)→荒菅沢→笹平→雨飾山→笹平→荒菅沢→雨飾高原キャンプ場→(車移動)→鎌池・鉈池→(車移動)→小谷温泉【参考コースタイム:約7時間+1時間】

3日目:小谷温泉→(車移動)→市場→大宮諏訪神社【参考コースタイム:約2時間】

 

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低山トラベラー/山旅文筆家

大内征(おおうち・せい)

土地の歴史や物語を辿って各地の低山を歩き、自然の営み・人の営みに触れながら日本のローカルの面白さを探求。その魅力とともに、ピークハントだけではない"知的好奇心をくすぐる山旅"の楽しみについて、文筆と写真と小話とで伝えている。
NHKラジオ深夜便「旅の達人~低い山を目指せ!」レギュラー出演中。著書に『低山トラベル』、『とっておき!低山トラベル』(ともに二見書房)、新刊に『低山手帖』(日東書院本社)など。NPO法人日本トレッキング協会理事。

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