北アルプスとともに暮らしを紡ぐ街、高山 大地の恩恵を再認識する山旅

ソーシャルハイカー/コンサルタント

武石綾子(たけいし・あやこ)

北アルプスへの想いと興味、旅のはじまり

「北アルプスにはロマンがある」

はじめて北アルプスの奥穂高岳に登った3年程前、私はおぼろげにそんなことを想った。それは穂高岳山荘から眼下に広がる絶景のせいかもしれないし、直前に読んでいた山岳小説『氷壁』の影響かもしれないし、時に危険を冒してまで自らの足で頂を目指す「登山」という行為に対する想いからかもしれない。そんな高揚を伴った不思議な感情こそが、私が山に足を運ぶ一つの理由なのだ。

北アルプスは、富山県、岐阜県、長野県、新潟県に大きくまたがる山域である。先述の奥穂高岳はちょうど長野県と岐阜県の県境が稜線となっており、山好きたちの会話では「岐阜側から行くの? それとも長野側から?」というような会話が交わされる。北アルプスの持つ「長野側」と「岐阜側」のそれぞれの顔は大きく異なるはずだが、それまでの私にとっては「長野側」がスタンダードルートであり、「岐阜側」の表情をほとんど知らなかった。

北アルプスの「岐阜側」は、どんな顔をしているのだろう。それが知りたくて、以前からずっと登りたいと思っていた「乗鞍岳」を目指しひとときの旅に出ることにした。

古びた道具たちに、いつかの登山家の挑戦を想う

高山駅にほど近いホテルの一室で、呆然と窓の外を眺める。せっかくだから未踏の地であった高山市内も観光をしていこうと考え、前日から宿泊していたものの、早朝から外出を躊躇するほどのひどい雨だったのだ。午後には快方に向かうようだが、まだしばらくは降り続きそうな予報。「何も今日に限って、そんなに降らなくてもいいじゃない」と少し不貞腐れながら、ひとまず駅前で入手した地図や観光案内をめくってみた。

有名観光地を横目に、他の人が行かないような面白い場所はないかと天邪鬼な気持ちで地図を見ていると、小さく記載されている「山岳資料館」が目についた。北アルプスの玄関口である高山の山岳資料館……。これは何やら面白そうだし、翌朝登山に向かう身としては期待できそうな場所だ。そんなことをのんびり考えていたら、青空が少しずつ広がりはじめているではないか。慌てて支度をして、先ほど目をつけた「山岳資料館」へと車を走らせた。

 元々高山市内の測候所として使用されていたというこの山岳資料館は、昔の暮らしを再現した「飛騨の里」の中にある。大正から昭和30年頃までに使われていたという登山・スキー用具をはじめ、飛騨山脈の動植物、気象、岩石、地形や登山史関係など多岐にわたる資料が展示されている。

なんとなく子供の頃に通っていた小学校を彷彿とさせる雰囲気の館内で、足を踏み入れた瞬間「わあ」と思わず声が出てしまった。当時の登山家やクライマーたちの姿が一瞬目に浮かんでくるような、大分使い込まれて傷だらけの、それでいてとても大切にされていたであろう登山道具の数々。私が持っているものの3倍くらいは重そうなピッケルにアイゼン。これを使って当時の登山家が向かったのは、厳冬の乗鞍かはたまた穂高か。

山の気候や地形などに関する資料は手書きのものも多く、アナログでありながらもその情報と筆跡から強い説得力を感じる。今よりもっと山が危険な場所だった時代、それでも山に向かうために命懸けで収集された数多の情報と記録。「あぁ、やっぱりロマンがあるんだよなあ。」と、いつかと同じような気持ちにまた耽る。この感じ、山好きならきっとわかってもらえるだろう。

山岳資料館を出ると、ジジジジ、という蝉の鳴き声がしていた。日差しはやわらかくなったが、夏はまだ終わっていないらしい。じんわりとにじむ汗をふきながら、山岳資料館を出てなだらかな登り坂を歩く。「文学散歩道」とよばれるその坂には石碑が9つ建てられている。江馬修など郷土の作家を含めた複数の文豪による言葉が刻まれていた。登り切ったところでひと際目を惹くのは、直筆をそのままに刻んだという、かの井上靖の石碑。

人間が造った
古い歴史と文化の町を
自然が造った
大山脈、小山脈が取り巻いている
冬になると
山脈という山脈は雪に覆われ、
町は隅々まで、飛騨の貌を持ち
優しい人情に鏤め
(ちりばめ)られる
日本列島のほぼ中央に位置し、
フンザ、キルギットと並ぶ
世界の山の町、高山
登山家の背の美しく見える、
静かな山の町、高山

井上靖

「氷壁」の舞台となった穂高岳が見えるこの場所が、その著者である井上靖本人も気に入っていたそうだ。余談だが、井上靖という人は登山家ではない。彼の旅の手記『穂高の月』にこんな一説がある。

私は穂高オンリーである。他の山はまったく知らない。小説『氷壁』でお世話になった穂高に、最後まで義理を立てている気持ちである。

山の素人を自称する井上は、常に一般ルートである松本側から穂高を目指していたようだが、手記の中では穂高・涸沢から観た月のことを「高山の月」と表現している。長野の松本から向かいながらも、彼は愛する穂高の麓に、高山の街を重ね見ていたのかもしれない。

温泉と郷土料理と、飛騨の暮らしの片鱗と

高山市内から車で1時間程の距離にある乗鞍岳の玄関口「平湯温泉」へと向かう。友人に勧められた宿に向けてワクワクしながら車を走らせていると、山に近づくほどに雲行きが怪しくなり、次第に雨が降り始め、現地に到着するころには再び本降りになってしまっていた。

この天気では周辺の森や平湯大滝の散策は難しいな、と頭を悩ませながらチェックインの手続きをしていると、「近くの平湯民俗館という施設が新しくなったんですよ。夜おそくまでこのあたりの郷土料理も食べられるし、朝ごはんもやってます。よかったら行ってみてくださいね」と女将さんが優しく声をかけてくれる。どうやら私が雨をうらめしい表情で睨んでいたのを見ていたらしい。友人推奨の宿はホスピタリティが抜群だ。 

平湯民俗館はバスターミナルから歩いて3分程、平湯神社のすぐ隣に位置する。お散歩程度と思って訪れてみたところ、とても趣深い場所でついつい長居してしまう。江戸時代に建築されたという茅葺屋根の家屋がいくつか並び、寸志で楽しめる露天温泉にはかわいらしい暖簾がかかっている。向かいには「田舎のおばあちゃんの家」を思わせる畳の休憩所があり、2階には江戸時代の修験僧円空による「円空仏」の他、飛騨地方ならではと言える昔道具の蓑やかんじき、提灯に鍬など当時の衣食住に関わる道具がところせましと展示されていた。置いてあるものは明治前後のものらしい。高山の山岳資料館といい、今回の旅は期せずして「山の文化・飛騨高山の暮らし」をキーワードに、近代の歴史に触れるものとなっている。こういう出会いがあるから、旅は楽しい。

雪が降る頃に、茅葺の屋根が白く染まる様子を見ながら温泉を楽しむのも、きっと格別だろうなあ。そんなことを考えていたら、あっという間に日が暮れてしまった。館内の居酒屋に立ち寄ってみると、甘じょっぱいタレの絡んだ飛騨牛のしぐれ煮や「とんちゃん」などの郷土料理と地酒のマッチングが罪深く、箸が止まらない。いい温泉と美味しい料理があれば十分に満足だ。明日はずっと楽しみにしていた乗鞍岳に向かう。あまり浮かれて飲みすぎないようにしなければ・・・・・・。

一面に広がる霧の中に、まだ見ぬ北アルプスの表情を想像する

翌朝、前日の余韻(二日酔いともいう)を若干引きずりながらも、平湯バスターミナルから畳平へ向かうバスに乗り込んだ。平湯から登山道で歩いて向かう事もできるのだが、山でゆっくり過ごすためにこの日はバスを選ぶことにした。バスで向かう場合は季節や天候によってダイヤが異なるので出発時間には注意が必要。この日は通常ダイヤ。空は曇りだが、もしかしたら好転が期待できるかもしれない。

「乗鞍岳」という名は峰々の総称であり、最高峰は標高3,026mの剣ヶ峰である。3,000m級でありながら、山頂近くまでバスでアクセスすることができ、手軽に登れる北アルプスの山として有名だ。道はさほど難しくないが、しっかりと事前準備をして、登山装備で向かいたい。

畳平に到着すると、密かに抱いていた期待に反して景色は一面真っ白、一寸先はガスという状態。ひんやりとした風が吹きつけ、慌ててレインウェアと手袋を着用する。高山の街ではまだ夏が終わってはいなかったが、山はとっくに秋を迎えている。

歩き始めからしばらくはほぼ平坦な道のりで、好転を望みながら歩いていると、道端でコロコロとゆれる丸いフォルムの影を見つけた。目を凝らすと、3羽のライチョウが連れ立って歩いているではないか。生のライチョウに初めて遭遇した私はその愛くるしい姿に大興奮である。漢字で「雷鳥」と書くその由来は、外敵から身を守る為、雷の鳴るような悪天のときにしか顔を出さないことから来ているらしい。これだから一寸先はガス、という状況も、悪くはないと思えてくる。

肩の小屋から1時間程で最高峰剣ヶ峰の山頂に到着した。晴れてさえいれば360度の大展望が期待できる場所だが、残念ながらこの日は変わらず一面真っ白。あきらめきれず山頂で待機していると、何度か雲が過ぎゆき、大日岳の雄々しい姿を拝むことができた。山頂に祀られている乗鞍本宮の奥宮にお礼の気持ちを込めて手をあわせる。

下山する頃には少しずつガスが薄くなり、畳平手前の鶴ヶ池と青空のリフレクションを見ることができた。バスの時間が迫る中、水色が群青色に変化する美しい水面の様子に、シャッターを切る手がなかなか止まらない。

天気が良かったら待っているに違いない絶景に思いを馳せて、平湯へ向かう復路のバスに乗り込む。近く、快晴の日に再訪することを心に決めた。一回来たくらいでは、その山の表情を推し量ることなんてできやしない。山は何度通っても、毎回必ず違う表情を見せてくれるものだから。

旅の締めはもちろん平湯温泉だ。次は紅葉か、雪景色か。白濁のお湯につかって疲れを癒しながら、すでに次の旅のプランを考えて顔がニヤつく。高山、平湯、乗鞍。この土地の楽しみは、まだまだつきそうにない。

文・写真 :ソーシャルハイカー/コンサルタント 武石綾子

<コース>

畳平⇒肩の小屋⇒蚕玉岳⇒頂上小屋⇒剣ヶ峰(山頂)頂上小屋⇒蚕玉岳⇒肩の小屋⇒富士見岳⇒鶴ヶ池⇒畳平

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この記事を書いた人

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武石綾子(たけいし・あやこ)

コンサルティング会社勤務を経て2018年に独立。各地の山・自然の中で過ごす余暇の提案や、地域の魅力を再発見する活動を行っている。コンサルティングの経験を生かし、地域や企業などのコミュニティに関する課題解決支援にも従事。

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