静謐のブナ林から大迫力の爆裂火口へ “惑星・安達太良”の最深部を歩く

低山トラベラー/山旅文筆家

大内征(おおうち・せい)

東山魁夷の日本画に描かれた、深いブルーのブナ林

町にいるときは、よく美術館に足を運ぶ。絵画には山や川を題材にしている作品がとても多いから、画廊に飾られた風景を眺めて歩くだけで、まるで山旅をしているような気分になれるのだ。これが実に楽しい。追体験とでも言おうか、作家のメガネを借りて覗き見る他人の世界には、新しい登山の楽しみ方のヒントがあるようでワクワクする。実際、気に入った絵の中に描かれている山を調べては、そこを歩きに行くといった旅をよくしている。

日ごろの暮らしの中で文化的な接点・視点を山に対して持つことによって、町にいても山と繋がっていられることを実感するようになった。文学や美術作品にたびたび登場する安達太良山は、ぼくにとってはそういう山のひとつで、そのきっかけとなったのが東山魁夷の描いた『青響』という絵画だった。

深く青いブナの林にひと筋の白い滝がすーっと流れている。うっかり画中に惹きこまれそうな色合いと構図だ。深すぎて文明の音が届かない穏やかな樹林の世界に、滝の音ではなくサワサワと擦れるブナの葉音だけが鳴り響いているかのよう。調べてみると、そこに描かれたブナの原生林が安達太良山(あだたらやま)の麓にあると知り、ぼくはささやかな興奮を覚えた。

安達太良山といえば、ロープウェイを利用した手軽な登山ができる大人気の山で、福島市や二本松市といった中通りを代表する町からのアクセスが抜群によい。しかし、モチーフとなったブナ林は、安達太良連峰と吾妻連峰の間に奥まった土湯峠にある。実は、ここから安達太良山の頂まで歩くトレイルが、地球という星の姿を実感できる最高の稜線コースなのだ。登山を楽しみながらも、その『青響』の舞台を歩いてみたいと思い立ち、旅支度に山道具を加えて福島へとハンドルを握った。

登る前から心が躍る! 東北の山らしい、たおやかな稜線

前の夜に福島市内まで移動しておいたから、寝起き直後の気分はずいぶん楽だった。前夜のお酒はほどほどにしておいたものの、米も水も美味い福島の日本酒が地のものにとても合って、いささか食べ過ぎてしまったけれど。

その山に由来のある土地の名産を、食を通じて身体に馴染ませておく。ビジターセンターや博物館であらかじめ土地の自然文化に触れておく。地元の人に山の話を聞く。そんな風にして「明日登る山の麓の町で前夜を過ごす」のがとても楽しい。山小屋ももちろんいいけれど、温泉宿でもリゾートホテルでもゲストハウスでも民宿でも、ときに駅前のビジネスホテルだって、楽しむ心と教わる気持ちがあればそれでOKだ。山行の本番を翌日に控えて、麓にいる時からすでに登山は始まっているというわけである。

土湯峠(つちゆとうげ)の手前にある野地温泉を目指すべく早朝の国道を走っていると、西に山々の連なりが寝そべっているのが見えてきた。安達太良山と並び立つ吾妻山が視界いっぱいに大きい。詩人・高村光太郎よろしく「あれが阿多多羅山」とつぶやき、あれが東北の山かと息を飲む。関東甲信の急峻な高峰と比べると、素晴らしくたおやかで横に巨大。安達太良連峰では箕輪山の1728mが最高地点とそう高くはないものの、長い道程を歩いて山頂を目指すタイプの山――そんなところにも東北の山らしさを感じる。これからあの稜線をぜんぶ歩くのだと思うと、それだけではやる気持ちを抑えきれない。

鬼面山から山稜の最高地点・箕輪山を越えて

野地温泉の駐車場に到着すると、早朝だからだろうか、いささか冷たい風に出迎えられた。真夏とはいえ、ここが東北の深山であることをあらためて感じる。このあたりには温泉宿がいくつかあり、安達太良山を目指すハイカーたちにとってよい拠点となる。当然ながら温泉好きにはよく知られており、宿の裏の「ブナッ子路遊歩道」を散策している旅行者も多い。そしてこの「ブナッ子路」を抜けて旧土湯峠に至るあたりの原生林こそ、東山魁夷の作品のモチーフとなった場所だ。具体的にここ、というポイントがあるわけではないけれど、日本を代表する画家がここを歩いて着想を得て、実際に絵を描いたのだ。それだけで感慨深いではないか。

鬼面山までの急な登り道からの眺めは、眼下にはブナに埋もれる野地温泉を従え、眼前には雄大な吾妻連峰の一角が迫る。さっそく迫力のある大展望に気をよくして、ひとつ目のピーク・鬼面山を踏んだ。旅人の祈りの証でもあるケルンが大きく、数多のハイカーが石を積み無事の山旅を願ったことに思いを馳せる。ここから先は低木の樹林帯をひたすら登るのだ。道は一本はっきりしているものの滑りやすく、特に雨後は道が悪いから、ハイカットの登山靴にスパッツがあれば心強いだろう。

鬼面山で対峙する箕輪山はとても大きく感じる。いや、実際にかなり大きいのだ。なにしろ、この頂が安達太良連峰の最高地点。1699.8mの安達太良山よりおよそ28m高い堂々としたピークである。この頂から先に広がる鬱蒼とした鞍部は笹平と呼ばれ、二本松市にある塩沢登山口への分岐となっている。そして、ちょうどこのあたりが福島市と二本松市の市境。そう、このコースは市を跨ぐ越境トレイルでもあるのだ。

笹平を乗っ越し、黒い建物に赤い扉が印象的な鉄山避難小屋でひと休みする。小屋はとてもきれいに使われていて、昼食を摂るのにちょうどよく、ありがたく使わせていただく。ちょうど沼尻から登ってきたという男性と居合わせて、お互いのコースの魅力を情報交換。しばしの山談義に話が弾んだ。

ここまでおよそ3時間。むかし登った奥岳からの安達太良山は手軽だけど荒涼とした山という記憶で、それとはまったく異なる豊かな樹林帯の長い道ばかりが続いている。YAMAPの地図によれば、ここで樹林とお別れとなり、その荒涼とした領域へと入るらしい。そう、大迫力の爆裂火口を横目に稜線を歩く「馬ノ背、牛ノ背」だ。この稜線は強烈な風が吹くことで知られており、濃霧ともなれば迷いやすい危険なエリアでもある。晴れれば圧巻の景観を眺められる鉄山から先は、風、霧、雷に注意が必要と心得たい。しかしこの日はそんな不安もどこ吹く風、とても穏やかな山行を楽しめている。

そういえば、どこ吹く風、で思い出した話がある。福島市内に信夫山という小さな山があることをご存じだろうか。盆地にぽつんと浮かぶ浮島のようなその山は、かつて湖だったという福島盆地に浮かぶクジラのような姿で親しまれている。この地域のシンボリックなに、吾妻山や安達太良山から強い風が吹き下ろし、それで風が「吹く島」と呼ばれるようになった。転じて、現在は「福島」というわけだ。県名由来には諸説があるものの、土地の話はなんとも面白い。この話には、安達太良あたりの山域が昔から風が強かったことが示されている。こうした地域伝承に関心を向けると、山歩きにぐっと深みが出る。

圧倒的惑星感。爆裂火口の稜線を渡り歩く

馬ノ背・牛ノ背から眺める「沼ノ平火口」は、とにかく圧倒的で、荒涼としていて、でも壮大で……。ひと言で言い表すのは難しいけれど、言うなれば惑星・安達太良という表現が当てはまるように思う。まさに別の星にでも降り立ったかのような錯覚に陥るほど、この爆裂火口はむき出しで凄まじい。ばっくりとえぐれた噴火の跡は、実際にむかしは沼だったそうだ。いまは有毒ガスが発生する危険があるため立ち入ることはできない。安達太良山の頂まで、ちょっとばかりの緊張を伴いながら、この壮大な大地創造の痕跡を眺め歩くことになる。

しかし、鬼面山、箕輪山、鉄山、矢筈森そして安達太良山と連なるこの稜線は、本当に圧倒的に美しくて言葉にならない。歩きながら、おー!とかスゲー!とか、そういう言葉しか出てこないのだから。安達太良山には何度か登っているものの、東山魁夷をきっかけに選んだこのコースは安達太良連峰の秘めたる実力を味わう極上のコースと言えそうだ。

八紘一宇の中心で。安達太良山頂は360度の大展望

爆裂火口の際を歩き続けると、視線の先に三角の頂が見えてくる。その山容から通称ちちくびとも称される安達太良山の山頂が、いよいよ間近に迫ってきたのだ。標高は1699.8mと、高山というほどの高さではない。とはいえ、これだけ体躯のどっしりした大きな山だから、ここまで歩くのにおよそ4時間ほどかかっている。ほどよい疲労感と充実感が身心を満たしていくのを感じながら、最後の砦のような山頂部に取り掛かった。

登り上げると、安達太良神社の小さな石祠がある。中には、石でできた小さな仏さま、それと入峯を果たした修験者の木札。頂は360度の絶佳で、ここは世界の中心なのかと気分も大きくなる。晴れれば福島の名峰たちを存分に眺められるけれど、この日は晴れ過ぎで遠くは霞んでいる。とはいえ、鉄山へと続く稜線についた確かな道筋が、はっきりと見てとれた。

見上げれば、青い空がどこまでも広がっている。今朝、麓から眺めた長い稜線の上に広がっていた遠くの青空に、いまようやく手が届くようだった。高村光太郎の『智恵子抄』のことを思う。光る阿武隈川は霞んで見つけられなかったけれど、智恵子がいう「ほんとの空」は、すぐそこに感じることができる。早朝から行動したから、時間にはゆとりがある。ほんとの空を眺めながら、しばらく休憩することにした。

来た道をまた戻れるという幸せを噛みしめる


太陽が正午の位置をやや回り、下山の時刻が迫ってきた。登山にはさまざまなコース設計がある。たとえば「縦走」は登りと下りで違う道を歩くため、目に入る風景がすべて新しい。尾根や谷筋を「周回」するコースも、やはり目に入る景色は異なり新鮮だ。いずれも
同じ景色よりも初めて出会う風景を求める場合に検討したいスタイル。

一方で「ピストン」というコース設計がある。来たときと同じ道をそのまま戻るからピストンで、つまり目に入る景色は(向きは違えど)同じものということになる。この安達太良連峰の山稜には、もう一度見ておきたい数々の風景があった。さっき見たあの景色をもう一度見てから山を下りたい、そう思わせるほどの絶景だ。縦走や周回とは異なる多幸感に包まれた下山を楽しめるのが「ピストン」のよいところなのだと、ぼくは再確認した。

そんなわけで、来た道を下山し始めると、次第に安達太良連峰の稜線が西から照らされ、その道程がどんどん黄色く美しく輝いてくのだった。さらに惑星感が強まったこの独特の風景の中を、地球人・ぼくは名残惜しくも軽快に歩く。

下山後のお楽しみは二本松市の岳温泉と決めている。安達太良山の代名詞的存在の「くろがね小屋」付近に源泉をもつ名湯を、麓の高原の温泉郷でも味わえるのだ。ついさっきまで身を置いていた安達太良山に由来する神の湯で汗を流し、福島に由来する地のものを楽しむとは、本当に贅沢な旅の締めくくりである。明日はゆっくりできるのだ。今夜は何も気にすることなく、お酒を飲むとしよう。

文・写真 :低山トラベラー/山旅文筆家 大内征

<コース>

土湯峠(野地温泉)→鬼面山→箕輪山→鉄山避難小屋→鉄山→安達太良山→鉄山→鉄山避難小屋→箕輪山→鬼面山→土湯峠(野地温泉)【参考コースタイム:ピストンで約8時間】

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大内征(おおうち・せい)

土地の歴史や物語を辿って各地の低山を歩き、自然の営み・人の営みに触れながら日本のローカルの面白さを探求。その魅力とともに、ピークハントだけではない"知的好奇心をくすぐる山旅"の楽しみについて、文筆と写真と小話とで伝えている。
NHKラジオ深夜便「旅の達人~低い山を目指せ!」レギュラー出演中。著書に『低山トラベル』、『とっておき!低山トラベル』(ともに二見書房)、新刊に『低山手帖』(日東書院本社)など。NPO法人日本トレッキング協会理事。

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